最終電車の、ひとつ手前
遠回りを選んだ、金曜日。
金曜日の二十三時十七分。美緒はホームの端の自動販売機で、温かいお茶を買う。缶を両手で包んでから、黄色い線の内側に立つ。三十四歳の冬、覚えるつもりもないのに身についた習慣だった。
その人も、いつも同じ場所にいた。グレーのマフラーに、持ち手を直した革の鞄。美緒より少し年上に見える。最初に話したのは、電車が遅れた夜だった。
「あと七分、だそうです」
彼が指さした案内板には、小さな文字が流れていた。美緒が礼を言うと、彼は「僕も今、隣の人に教えてもらいました」と言った。親切の出どころまで申告する律儀さに、思わず笑ってしまった。
次の金曜日は、会釈。その次は「寒いですね」。二月になる頃には、駅前の定食屋が閉店することや、川沿いの梅が咲いたことを話すようになった。それでも、名前は知らなかった。
美緒は花屋で働いていた。金曜日は週末の仕入れが重なって遅くなる。彼は小さな病院の事務で、月末の仕事を片づけると、ちょうどこの電車になるのだという。白い息の向こうで聞く仕事の話は、どちらも少しくたびれていて、なぜか心地よかった。
ある金曜、彼はいなかった。美緒は自動販売機の前で、無意識に二本目のお茶のボタンに手を伸ばしかけた。たった十分話す人のために、自分の中にこんな場所ができていた。そのことに驚いた。
翌週、彼はホームのベンチに座っていた。美緒を見ると立ち上がり、小さく頭を下げた。
「先週、母のところに行っていて」
説明する必要なんてないのに。美緒がそう言いかける前に、彼は続けた。「会えなかったから、なんとなく、言っておきたくて」
美緒は温かいお茶を二本買った。一本を差し出すと、彼は驚いた顔をしたあと、両手で受け取った。
「来週、僕が買います」
「じゃあ、来週も残業ですね」
二人は笑った。美緒は自分の言葉が、約束に似ていることに気づいた。
三月の最初の金曜日、彼はいつもより薄いコートを着ていた。美緒が花の入った紙袋を持っているのを見て、「今日は何の花ですか」と聞いた。
「スイートピー。少し茎が曲がって、売り物にできなかったんです」
袋を開くと、淡い紫の花が風に揺れた。彼は顔を寄せて香りを確かめた。「春の匂いがする」。美緒は一本だけ取り出し、彼に渡した。花を持った彼は、行き先を見失った人のように少し困っていた。
「コップに水を入れれば、大丈夫ですよ」
「そうじゃなくて。うれしくて、何か言いたいんですが」
電車の近づく音がした。彼は花を持ち直し、美緒の方を向いた。
「明日、もしお時間があれば。昼間に、コーヒーでも」
美緒はすぐに返事をしたかった。けれど胸の中で、ひとつだけ順番を守りたいことがあった。
「美緒といいます」
彼は一瞬きょとんとして、それから笑った。「僕は圭介です」
電車のドアが開いた。二人は乗り込み、並んでつり革を持った。明日の待ち合わせを決めるのに、二駅かかった。お店を一つ選ぶだけなのに、どちらもいちいち相手の顔を確かめるからだった。
降りる駅で、美緒は手を振った。ホームから見えた彼の手には、紫の花が一本。いつもの金曜日と同じ電車なのに、帰り道の長さが違って感じられた。
お わ り