雨がやむまで、ここにいて
一杯のコーヒーと、言えなかった言葉。
雨の日だけ、喫茶店の時計は遅くなる。窓をつたう雫を見ながら、紗季はそんなことを考えていた。三十二歳になった春、勤めていた出版社を辞め、叔母の店を引き継いだ。まだ自分の店と呼ぶことには慣れなかった。
閉店まであと十五分。入口のベルが鳴った。傘を閉じる人の肩越しに、濡れた街の灯りが見えた。顔を上げた紗季は、持っていた布巾を静かに置いた。
「まだ、大丈夫ですか」
五年ぶりに聞く声だった。遼は少し痩せていた。けれど、返事を待つときに首を傾ける癖は変わっていない。紗季がうなずくと、彼は窓際の奥から二番目の席に座った。昔、待ち合わせに使った席だった。
「ブレンドでいい?」と聞いてから、紗季はしまったと思った。五年の間に好みが変わっていないと、どうして決めつけたのだろう。遼は上着を椅子の背に掛けながら、「覚えてるんだ」と笑った。
豆を挽く音が、二人の間にちょうどよい距離をつくった。東京を離れたことも、三十五歳になったことも、人づてには聞いていた。けれど目の前にいる彼に、何から聞けばいいのかわからなかった。
カップを運ぶと、遼は鞄から一冊の本を出した。角の丸くなった、青い文庫本。別れる前に紗季が貸したものだった。返してほしいと思ったことはなかった。返ってこないことに、救われてさえいた。
「遅くなって、ごめん」
「延滞料、高いよ」
言ってから、二人とも少し笑った。笑えるのだ、と紗季は思った。最後に交わした言葉ばかりを、何度も思い出してきた。その続きに、こんな何でもない冗談が置けるとは知らなかった。
本には栞の代わりに、駅前の映画館の半券が挟まっていた。彼女が選んだ映画を、遼は途中で眠ってしまった。あの日の帰り道、映画の話をする代わりに二人は駅を一つ歩いた。よく覚えている。それでも紗季は本を閉じた。思い出を、今日の話題の代わりにはしたくなかった。
「今は、何をしてるの」
遼は小さな設計事務所で働いていると言った。新しい建物よりも、古い家を直す仕事が多いらしい。うまくいかなかった現場の話をする彼を見て、紗季は肩の力が抜けた。彼の五年間にも、洗濯や寝坊や、誰にも話さない失敗があったのだ。
紗季も、最初の月にミルを壊した話をした。叔母は電話の向こうで笑い、修理屋の番号だけ教えてくれたこと。近所の花屋が、売れ残りではない花をわざわざ持ってきてくれること。遼はコーヒーを飲みながら、ひとつずつ聞いた。
雨はまだ降っていた。時計の針が閉店時刻を過ぎ、紗季は入口の札を裏返した。戻ってくると、遼が席を立とうとしていた。
「帰る?」
「もう、閉める時間だろう」
紗季は返事の代わりに、自分のカップを一つ出した。今度はきちんと言葉にしようと思った。彼が察するのを待って、その沈黙に傷つくのは、もうやめたかった。
「あと一杯、付き合って。私も今日のコーヒーを飲みたい」
遼は椅子に座り直した。「喜んで」。紗季は彼の向かいに座った。窓ガラスには、二つのカップが淡く映っていた。
五年前に戻れるとは思わなかった。戻りたいのかどうかも、まだわからない。ただ、目の前にある今日のことを、もう少し話したかった。
「来週は、晴れるらしいよ」と遼が言った。
「晴れの日も、営業してます」
次の約束は、それだけで十分だった。
お わ り