栞に、あなたの名前を
恋の続きは、次のページに。
三十六歳の誕生日に、千尋は一人で海辺の町へ出かけた。特別な予定はなかった。駅で地図をもらい、知らない道を歩き、気になった店に入る。それだけの休日がほしかった。
古書店は坂の途中にあった。入口には、雨の日には外に出せないだろう木の椅子。扉を開けると、紙と、少しだけ柑橘の匂いがした。奥で本を拭いていた男性が「こんにちは」と言った。
棚の下から二段目に、薄い旅の随筆があった。開くと、ところどころ鉛筆の線が引いてある。「道に迷うのも旅のうち」という文章の隣に、小さく「帰りたい時はそうも言っていられない」と書いてあった。千尋は声を出して笑った。
「それ、書き込みがあるので半額です」
店主は申し訳なさそうに言った。千尋は本を閉じた。「書き込みが好きなので、これにします」。レジに本を置くと、彼は一瞬だけ、まばたきの回数を増やした。
帰りの電車で読んだ。随筆の著者はおおらかで、鉛筆の人は慎重だった。著者が港町の市場を褒めると、鉛筆の人は「朝六時なら、もっといい」と書いた。大げさな比喩には小さな疑問符。故郷を離れる場面には、何も書かずに短い線だけが引いてあった。
誰かが一人で読んだ時間に、そっと椅子を置いてもらったような気がした。千尋は翌週、その町へ戻った。市場を見に来たのだと、自分に説明しながら。
古書店の店主は彼女を覚えていた。千尋が本を見せて、市場の場所を尋ねると、彼は窓の外を指した。
「坂を下りて左です。でも今は、もう閉まっています」
「朝六時じゃないと?」
彼の耳が赤くなった。それで千尋にはわかってしまった。
「あなたの字だったんですね」
「昔の私物です。売る棚に入れたのを、忘れていて」
店主は三十八歳で、名を直人といった。以前は遠い町で働き、三年前に実家の書店を引き継いだという。本の書き込みは、戻るかどうか迷っていた頃のものだった。千尋は本を差し出した。「返しましょうか」
直人は少し考え、首を振った。「読んでもらえた方が、いいと思います」
その日から、月に一度、千尋は店を訪れるようになった。本を一冊買って、近くの食堂で昼を食べる。直人が店を休める日は、一緒に海まで歩いた。好きなものが同じだとは限らなかった。彼が絶賛する映画を、千尋は退屈だと思った。千尋の好きな甘いパンを、彼は一つ食べきれなかった。
違う、と言ったあとにも話が続く。それが千尋にはうれしかった。
秋の終わり、直人から手紙が届いた。取り寄せを頼んでいた本が届いたという知らせだった。事務的な文章の最後に、一行だけ違う筆圧で書いてあった。
『今度の日曜は、仕入れを休みます。市場の朝ごはんを、一緒にどうですか』
千尋は翌朝、電話をした。返事を手紙にすると、届くまで待てそうになかった。受話器の向こうで直人が店の名前を言い、千尋が名乗ると、声がほんの少し近くなった。
「始発で行きます」
日曜日、駅の改札の外に直人がいた。眠そうな顔で、温かい飲み物を二つ持っていた。千尋は鞄から、あの随筆を出した。最後の余白に、新しく一行だけ書き込んでいた。
『朝六時。ひとりで来るより、たぶんいい』
直人はそれを読んで、鉛筆を借りていいかと聞いた。彼が隣に書いたのは、短い返事だった。『たぶん、ではなく』。
二人は本を閉じて、市場へ歩いた。海の向こうから、まだ淡い朝の光が差していた。
お わ り